なぜ『借りぐらし』のアリエッティなのか考察

借りぐらしのアリエッティ」というタイトルが気になっている。

宮崎アニメは大好きだし、アリエッティも結構好きなわけで、以下は批難したいわけではない事を先に書いておく。

この作品は人間よりも遥かに小さい小人族であるアリエッティという女の子とその家族が、とある人間の家の縁の下にこっそりと住み着き、人間が使っているものをちょこちょこ拝借して生活しているというお話。

真っ先に気になるのは人間の家から持ってきた物を返却しているシーンが無いので「借りる」というのは違うのではないかという事。

とはいえ「ぬすっと族のアリエッティ」やら「借りっぱなしのアリエッティ」では主人公や作品のイメージがだいぶ黒くなってしまうので却下にしたのは確かだろう。「暮らし」という言葉を付けてるのも、その通りの意味以外にも「暮らす為の行為」という大義名分により、主人公自体の印象を悪くしないようにしたり、子供が真似しないようにという狙いも感じられる。

それに借りるなり、盗むなりというような要素を省いて、例えば「小人族のアリエッティ」等とすると、恐らくこの作品で特に表現したいのであろう、人間の家に入って、小さい身体だけに大冒険の如く探索して物を手に入れる日々を送っているという要素がなくなってしまって「違う」のだろう。

ところでタイトル検討時に「ねずみ人間アリエッティ」的な案に行かなかったのだろうか。ほら、屋根裏などでねずみの如く暮らしていているし。まあ大いなる力が働いて、そんなタイトルにはとても出来ないのだろうけども。


余談はさておき、主人公やその家族らは表情は笑ったりするシーンはあれど、どこか疲れているような暗い感じだったように思う。特にアリエッティの父なんかがそんな感じだったと記憶してる。

毎日、人間に見つからぬように危険を冒して食料などを調達しにいく事に疲れを感じているからなのは確かだと思う。でもよく考えてみると、身体の大きさは違えど同じ人間として、他人の物を無断で拝借している事に日々罪悪感を感じている事で心が疲弊しているという表現でもあったのかもしれない。そういった心の葛藤も描きたいという点から、タイトルに「借りぐらし」という言葉を前面に強調したかったのだろう、と思う。
そんなわけで「魔女の宅急便」やら「天空の城ラピュタ」などと比べると、タイトルに何かメッセージ性が込められているような、宮崎アニメシリーズにしてはちょっと違った印象が感じられ、そんな事を考えたのでした。そう考えると「となりのトトロ」の「となり」というのも色々と宮崎監督の想いが込められてそうに感じる。